《土佐之梦》(校对版全本)作者:周元祀
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《土佐之梦》(校对版全本)作者:周元祀
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内容简介
以第一人称的视角,展示最为真实的战国。
那是一个文明的时代,商业兴盛、文化繁荣,技术和思潮的碰撞;
那是一个野蛮的时代,诸豪纷起,战乱频繁,背叛和杀戮的盛行。
那是强者的乐土,却是弱者的地狱。
强者不足恃,可能瞬间轰然崩塌;弱者不须嗟,可能最终宰割天下。
一个现代的中国学生,来到了日本战国时代,又将描出怎样的轨迹呢?
……
判曰:
缘起之章:高知访旧友,误入战国年。后事且不计,闲居幽境间。
辉煌之章:云收骤雨散,日照金鳞开。乃遂登临意,山河入目来。
作品相关
小说的资料——家纹篇
见闻诸家纹(注:又名东山殿御纹帐。室町八代将军足利义政撰)
其之遥
二引I、五七桐
源姓。八幡太郎。童名不动丸。或源太。舅奈幌隆B桨率亍:沤鹳ぢ薜睢U蚴馗将军。後冷泉院依取8割m义随兵。奥州之安倍贞任诛。其弟宗任为降人。攻榧渚钮蹦辍F溽崽傥浜饧液庥牍槭氯ケ年。康平治贰F浼涫二年也。合樘质ぁJ准兜靡煌蛭迩в嗵煜仓猩下濉N褒美依让。五七桐纹免许。故当家御纹。五七桐。二引I云々。桐者根本安家之纹也。八幡殿贞任御退治以後。御上洛之时。依被望申下赐此桐纹云々。
其之r
一姓
吉良。义氏之次男义@。号东条。三男长氏。号西条。
i川。泰氏之次男义之孙。
石桥。泰氏の嫡流。自五世孙和义号石桥。
以上三家。号下马\。
斯波。泰氏孙家氏次男宗家。号斯波。
细川。义g次男义季。号细川。
山。义兼嫡子义纯。号山。义兼者义清弟也。
以上三管领也。
上野。泰氏四男义有。号上野。
一色。泰氏五男宫内卿法印公深。一色之祖也。
山名。重国嫡男重村。号山名。
新田。重国次男义俊。大搿D裆阶嬉病H男义兼。号新田。
大o。义兼四世孙基氏弟家氏。号大o。
仁木。义g嫡子g国号仁木。
今川。吉良西条长氏次男国氏。号今川。
桃井。义兼三男义胤。号桃井。此义兼者非新田义兼。矢田判官义清之h弟也。
吉见。义朝五男范m子法师范摇<见祖。
其之参
桔梗。但幕者无纹水色。
土岐。m光四世孙国房之末。国房者m政之叔父也。童名文珠丸。正四位下。津守。镇守府将军。土岐氏。本出干源姓。故其为纹者。一浒咨。乃以为水色。昔时唯用焉。是又所以贵其先也。後也有野槭薄H〗酃;犯善潆幸源蟮美窝矣、因为之例。逐置之水色之中。以为之定纹也。然不记其年月又其不知何人始为之也。源m光为纹。末裔用之。故不得坚取其h。暂依其所闻。以书写而已。
松皮菱
武田。m义男新罗三郎义光の末孙也。舅奈幌隆R劣枋卣蚴馗将军。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依取0轮莅脖额m时攻。是时诣住吉社。新平复夷贼。干时有神托。赐旗一流。铠一领。昔神功皇后征三韩用也。神功皇后铠|J者。住吉之御子香良大明神之铠袖也。此裙之纹。割菱也。三韩皈国後。镇座於津国住吉。以奉纳干殿矣。今依神之感辍8稍搭m义赐之。可谓希代也。m义三男新罗三郎义光虽为季子。依父钟爱恢。即旗J无是也。旗者白地无纹。铠有松皮菱。故义光末裔当家为纹。
其之四
唐花菱
田大膳大夫贤信
类颈兢扦细盍猡獠⒃丐丹欷皮い搿#ㄗ:此即著名的武田菱)
云に左三つ巴。
奉公一番\我
二つ引Iに左三つ巴
具平源氏。赤松兵部少辅政则
四つ目结
宇多源氏。佐々木大膳入道生Q(注:京极氏、六角氏之祖)
七宝に花菱
云州佐々木凡此轮违也。c冶
扬羽蝶
伊势平氏。v
(注:其后皆样式,计四十七张,九十四页。其书极简,其事亦远,故略,改列江户之式)
【三ッ叶葵】
本来は京都贺茂神社の神纹。『见闻诸家纹』では、丹波国船井郡の豪族西田氏が用いている。室町幕府八代将军のころには、まだ源ㄊ悉渭椅皮趣筏票恧铯欷皮い胜ぁN魈锸悉纬『悉稀⒐扭丹波地方に贺茂信仰が萌していたことによるらしい。デザインはリアルな二叶立葵。三河地方の土豪松平、伊奈氏など周x豪族をふくめて家纹のk达をみるのは、加茂郡そのものが奈良朝期すでに神酩あったからで、贺茂信仰が古くから盛んであったことによる。つまり、氏子豪族の表示。源家特有纹となるのは、庆长十六年以降のこと。
【抱きR】
『长仓追罚记』によると、熊野の神官铃木氏が用いている。宇多源氏を称したw井氏(津和野藩主家)は、纪州熊野の[积氏の出自よいわれる。
【平井桁】
『文正记』には甲斐氏がみえ、『见闻诸家纹』では石井?长井氏がみえる。一般に冥知られているのは、远江から出て彦根藩主となった井伊氏。いずれにしても井の字を、书き文字か戆富したもので、指示的性格をもつ。槌·瞧熘肝铯摔筏砍『稀⒁荒苛巳护欠证りやすかったのであろう。
【ぎ马】
『见闻诸家纹』では、贽川氏や平野氏の「放れ马」がみえる。平将门の後裔とする相马氏は、下tの相马から出て陆奥の相马郡へ本を移し、马の饲育放牧を司った。「ぎ马」を家纹に用いている。
【梅\】
前田家一族の纹章として冥知られている。素型は六曜星纹から天神纹へ浃铯辍⒗家の年顷に轴付きの梅\纹が生まれている。三代利常に及んで、本?支を明らかにするため梅\、丁字梅\などと多化した。大和の筒井氏も天神信仰により梅\纹を使用。
【丸に三つ鳞】
`仓幕府执事乇碧跏悉渭椅皮趣筏朴忻。楣以前、早くも『蒙古袭来}词』のなかに鳞纹は现われている。前北条氏の灭亡後、伊势新九郎が小田原に入り、北条早云を名\る。以後、後北条氏一族の家纹として袭用、さらに充をみる。
【立ちg泻】
『见闻诸家纹』には越中松仓城主の椎名氏が用いたとみえている。N臣秀吉の马标が有名。木下氏の出自だったからといわれる。木下の亲族福岛正则も立ちg泻を用いた。このほk、大名家としては毛利、水野、土井、浅野、奥平、酒井氏その他が使用している。中国の楣武将毛利元就が敌を追って川xに至ったとき、水际に生えていたg泻にカゲロウが止まっているのを见、「胜ち草に胜ち虫あり」と全军を励まし大胜をГ幛炕挨嫌忻。
【|の叶】
诹访明神の神纹として有名。『羽@原合榧恰护扦稀⑿胖葳练酶督の豪族下条、山x氏らがみえる。神官の出自をもつ|、神、祝、金刺、矢守、茅野氏など、いずれも|の叶纹。大祝の出自をもつ诹访氏は、上原城にあったが武田信玄の攻膜蚴埭泵鹜觥¥韦烈蛔澶源ㄊ悉艘辘蛲à袱期练酶叩撼扦胤丹Dく。所领三万七千石。
【丸に三つ叶柏】
『见闻诸家纹』には、热田大宫司の千秋氏をはじめ、宗像大宫司氏_、神谷、雀部、尾林、竹内、山内、水原、朝日氏などがみえる。山内氏の场合、一Nの父盛Nは织田氏に仕え、丹波の合椁韦趣柏の枝を旗指物にして奋椤Jだしたとき枝に残った叶が三枚だけだった。よって三つ叶柏を家纹にしたと『土佐山内系怼护护à皮い毪、事gは山内一门の柏纹ははるかに古い。足利义氦仍蹲嫔侥谥碛椅烂扭椁盲郡趣、すでに柏の指物があったと『别本山内系怼护护à皮い搿¥蓼俊奥羽の葛西一族も三つ叶柏纹を使用。
【酢浆草】
『见闻诸家纹』には、小田又次郎知宪、肥田助太郎政秀、中g、多贺、赤田、平尾。长宗我部氏がみえる。三つ叶の间にを配した武家好みのデザイン「酢浆草」はこのあと、楣期に入ってからであろう。源ㄊ祥v系の楣大名では酒井、森川氏などがある。
【丸に唐花菱】
『相国寺供养记』には、武田信在が红直垂に违い菱の缝い纹をつけていたとある。『长仓追罚记』には、大内介が唐菱。甲斐武田と若狭の守护は武田菱。菱鹤は南部纹。坂西は丸に松川菱。赤gは松皮菱に十文字。远州の小笠原も松皮菱などとみえ、武田一门がベ`スとなっている。『见闻诸家纹』には武田氏の松皮菱、唐花菱。小笠原氏の三阶菱。大内氏の唐花菱。秋山氏の松皮菱などがみえる。
【一つ远雁】
『见闻诸家纹』では、井上右京亮贞忠の二つ远雁。违い远雁が小串氏、进藤氏、阿波の大西氏。菊水に二つ远雁が大芋氏。Go胆に二つ远雁が和州の越智氏。丸に三つ远雁が高宫氏。カコの内一つ远雁が高安河内入道永隆と饭尾左卫门大夫之种。『永仓追罚记』には、远雁金は安部殿。水に雁は小串五郎とある。信州では、滋野氏の流れを汲む海野、望月、祢津、真田氏らが雁纹。また同じ信州で、このほか井上、赤井、上林、山口氏らが同纹である。
【桔梗】
「土岐の桔梗一揆」といわれるように、桔梗のシンボルのもとに饨幛筏客玲氏一族は美浓に威势を振るった。『见闻诸家纹』でも土岐氏の存在が明らかである。织田信长を倒した明智光秀、秀吉に忠节を尽くした加藤清正などいずれも土岐氏族と护à椁欷搿¥蓼俊⑾嗄¥翁田氏は多田氏族の出自をもつが桔梗纹。太田道灌が有名。末裔の重正のとき家康に仕え、のち远江挂川五万二千石。
【丸に抱き杏叶】
『见闻诸家纹』では、大友N後守亲繁、津修理大夫之亲、田村氏、安芸の毛利氏(替纹)、饭河远江守、崎和筑前守などが抱き杏叶纹。近江の目贺田氏が三つ盛杏叶。芸州の岛氏、大野氏、温科氏などが杏叶九曜。大友氏は相模出身のN後守护だが、一族や有力家臣にも与えて同纹の\として优遇した。立花氏も大友一族として同纹。元w元年龙造寺氏が大友宗麟を破り杏叶纹を家纹とする。のち、龙造寺氏を断~させて杏叶纹を夺ったのは重臣锅岛氏。
【五七の桐】
足利尊氏が後醍醐天皇から下赐されて以来、足利幕府は一族の吉良氏、一色氏をはじめ、管料の山、细川氏をはじめ牍Δ韦った三好义长、松永久秀、上杉谦信、大友宗麟らに下赐。最後の将军足利义昭も前例にならって、织田信长へ与え、信长もまた秀吉?家康らに与えて优越感にひたる。今日の胝陇摔馑皮Qがあったものか。
【军配馍取
『见闻诸家纹』では、粟生田次郎左卫门尉U行、矢岛、真下、富田氏らがみえている。これらはいずれも武iを中心とする褂竦长纬鲎预颏猡摹H河出身とする奥平氏も褂竦长趣いぁ⒕配馍任啤
【洲浜】
『长仓追罚记』には、常陆の宇都宫氏族の小田の大辅の名がみえ、『见闻诸家纹』には、安芸の`跏悉颏悉袱崽丈绞稀⒃街鞘献澶嗡骂氏や伊庭氏、茨木氏がみえる。云州佐々木の吉田氏は三つ盛洲浜纹。松代の真田氏も一つ洲浜纹。
【违い鹰の羽】
『见闻诸家纹』では、栏干丸に鹰の羽の町野左近将监敏康、并び鹰の羽の菊池氏。违い鹰の羽の後藤左京亮、抱き鹰の羽に二つ引Iは美马氏、三本鹰の羽のR毛氏。州の太田氏は一つ引Iに违い鹰の羽、加州の仓光氏は五本鹰の羽、中村氏は丸轮に违い鹰の羽、福井氏は违い鹰の羽がみえる。『长仓追罚记』は菊池氏だけ。楣末期に土岐氏族の浅野氏が违い鹰の羽を用いた。
【竹に雀】
『见闻诸家纹』では、竹の丸にw甲の朝仓下野守、三本竹の粟饭原氏、竹の丸に雀の上杉氏?箸尾藤酝琛⑽イぶ瘠魏哟迨稀⒅瘠瓮瑜送─厦魇越前守?上神氏?大鸟氏などがみえる。竹に雀纹は、上杉氏から长尾氏?伊达氏へと护铯盲皮い盲俊¥饯我链锸悉悉蓼孔钌鲜悉丐确肿jしている。
【橘】
『见闻诸家纹』のころ(耆誓┠辏1468~文明二年=1470までの间に成立)では、武家の间に多くみあたらない。a师寺扫部助元隆の三つ橘纹と小寺藤兵卫尉の三つ橘に藤巴が记载されている。楣末期に台头する井伊氏の橘が有名。また山中鹿介も橘纹をしようしていた。
【丸に茑】
椎名氏、富田氏などのほか、高安河内入道永隆の纹が『见闻诸家纹』にみえる。楣末期に台头した六_氏や藤堂氏が茑纹を用い、源ㄒ蛔澶嗡善街罴窑韦郅趣螭嗓茑纹。しかし、耆胜温抑鼻挨韦长恧魏椁颔猊钎毪耸椁れた『永仓追罚记』には茑纹がない。纠础④啶掀咸绚我钉ら考え付いたのではないかというが、それはおかしい。理由がわからない。ひとつの私见としてあげれば、足利氏の桐纹の下赐が、次第に直接的ではなく、多くは赔臣的立场への派生を·印そのまた家来へと枝条的となっていったため、桐纹泛滥を避けるデザイン的知{が生まれたのではないだろうか。つまり至尊をはばかり、桐纹の下部の叶だけを残し、上の花を除いてその部分を叶に浃à欷小⑼┪皮一して茑の纹となる。まだ花Dかぬという谦jの精神をこめ、末梢的系谱の人々へ与えたのではないだろうか。
【鹤の丸】
『见闻诸家纹』では、A叶左京亮のい立鹤、佐|五郎明房の云月に舞鹤、波々伯部彦次郎贤Nの松肖ず住⒋蠛褪?远江の蒲生氏の二つ引Iにい立鹤、石川氏の飞び鹤がみえる。『永仓追罚记』には高井左卫门尉の松に鹤、南部氏の菱鹤、近江御门の後裔葛山备中の庵の内い鹤などがある。楣末期には、诹访氏や森氏の鹤の丸などがある。
【三つ巴】
古代に海の彼方から渡来したデザインである。『见闻诸家纹』には、我氏の云に左三つ巴、赤松兵部少辅の二つ引Iに左三つ巴、宇都宫氏の右巴、小山氏の左巴、杉原氏の角巴、香河五郎次郎和景?越後の长尾氏の九曜巴、山田道祖千代丸の鳞巴、丸N前七郎朝达の三つ盛巴、芝山三河守持嗣の三つ积み巴、山下左京亮のA形に右三つ巴、金山氏の一つ引Iに并び巴がみえる。その他、岛?大野?温科氏らの替纹として右三つ巴がある。武神として尊敬を集めた八幡宫の神纹であった巴纹は、武家社会で人荬あったことはいうまでもない。
【丸の内二つ引I】
二つ引Iは足利氏の代表纹。引I纹は幕纹からの移といわれるが、その起源については明らかではない。『见闻诸家纹』によると、吉良、i川、石桥、斯波、细川、山、上野、一色、山名、新田、大馆、仁木、今川、桃井、吉见氏ら一族や阁僚メンバ`がみえるほか、他纹と组み合わせたものに、赤松、三浦介、远山、富永、长野、庄、吉川、波多野、神保、三渊、蜷川、川原、中g、饭川、安木、大和、绮(Kawata)、\坂、平尾、金山、物部、矶谷、三木、西面氏などの武将にみえる。
【下り藤の丸】
藤原庶流を名\る武将の家纹である。加藤、佐藤。忍佟⒔藤、首藤、进藤、武藤、尾藤、後藤……など庶流が用いた。『见闻诸家纹』では、{岐の大野氏、津の伊丹氏、河内の由佐氏、美浓の伊贺氏、播磨の小寺氏、近江の箕浦氏などがみえる。『永仓追罚记』では、越中の神保氏、三河の铃木氏その他がある。
【三つ星に一文字】
三つ星は大将军星?左右将军星の三つを指すので三武、武神としての信仰がある。一文字はカツとk音するので武威をシンボル化して造成された。『见闻诸家纹』では、本_氏、渡x氏、飨庭氏。一文字三つ星は、长井?毛利?竹藤?c?绮氏。三つ星に吉の字は毛利氏。三つ星に一文字は、渡x?祢崎氏が用いた。
【隅立て四つ目结】
近江の佐々木一族の代表家纹として有名。『见闻诸家纹』では、佐々木大膳大夫入道生Qの四つ目结。二松?饭田氏の三つ目结。本庄氏の九つ目结、武藤左京亮信用が寄挂り目结、椎屋氏が四つ目结、本间氏が十六目结、能势氏が丸に十二目结纹とある。なお、佐々木氏の流れといわれる宇多源氏の武将京极?建部?w井氏らも四つ目结。近江を出自とする尼子氏が七つ割り平四つ目结。越中の佐々氏は滋目结を用いた。
【织田木瓜】
もともとは海の彼方から渡来した贵族纹だが、武家社会に冥普及した。织田信长の家纹として有名だが、もとは朝仓氏の陪臣的家系だった。したがって朝仓氏も同纹。『见闻诸家纹』では、木瓜に二つ引Iの富永氏、六つ木瓜の尾张守政长の被官游佐河内守、二つ木瓜に庵の海老名与七政贞、并び木瓜の岩城中务丞宗直、五つ木瓜の宫氏、大平氏。さらに、四つ木瓜の八木氏、大田垣氏、池田充正。三つ盛木瓜に二つ引Iの三木氏などがみえる。
文中にひいた『见闻诸家纹』は、一名を「东山殿御纹帐」ともいわれる通り、室町幕府八代将军足利义政の顷の将军家を初めとして、守护大名から国人层に至るまでの诸家二百六十ほどを次第不同にуhしたもので、武家家纹の研究には欠かせない史料としてつとに有名である。
また、『永仓追罚记』は『羽@原合榧恰护趣猡瑜肖欷郡猡巍¥长欷卧典となる『永仓状』には家纹のことは记されていないという。しかし、纹章武将名についてみるとき、『见闻诸家纹』に比べて劣ることは否めないが、内容的に大过がないのではないかと考え、暂定的参考书にとりあげた。
小说的资料——军制篇
一、军阵的基本构成
日本战国时代,大名军阵由大名本阵和若干独立军团组成。
本阵成员包括总大将、副将、军师、佑笔(执笔)、军奉行(管辖其下的旗奉行、弓奉行、枪奉行、小荷驮奉行、兵粮奉行)、军目付、使番、物见番头。此外还包括马回、小姓、药师、祈祷僧等保障人员。
独立军团一般包含侍大将、枪大将、铁炮大将、足轻大将、弓大将以及其下的兵吏、兵丁组成,独立军团中的各个作战分队之间也有使番负责联络。
二、本阵
1.总大将。总大将坐镇本阵,为全军最高统帅,类似现代司令员一职。战国大名本人出阵之际,自动成为全军的总大将,如果大名本人年老、年幼或者生病不宜出阵之际,一族中的重臣便代替其出阵成为总大将。战国初期,战役的规模一般很小,参战双方兵力只有几百数千,在较小规模的军势中,总大将一人便可使军队调度自如。但是,经过数百年的混战,不断的兼并,逐渐形成了一些占据一国乃至数国的强大家族,随着战争规模的扩大,动员一、两万人参加的大型合战日渐频繁,甚至在战国后期出现
二、三十万的庞大军团,于是建立一个效率高、职责明的指挥首脑机关便成了顺理成章的事情,这直接导致了本阵的形成和规模的扩大。
2.副将。本阵中有副将,一般是由总大将的亲族担任,辅佐主将,类似现代副司令员一职。不用多说。
3.军师。军师想必大家都很熟悉,负责出谋划策,手握军配,观星象、占阴阳、算成败,一副诸葛亮、刘伯温在世的模样。战国历史上著名的军师有太田道灌、雪斋、山本勘助、山中鹿介、立花道雪、锅岛直茂、安国寺惠琼、片仓小十郎、岛左近、直江兼继、真田幸村、本多正信等人。
4.佑笔。本阵中还有一个非常重要的文职人员,名叫佑笔,又称执笔,相当于我国古代历史上的书记、文书之类,也就是现在的秘书类型的角色。他的主要工作是做会议记录,起草各类书状(包括功名状、感状等),还保管着总大将的花押(印章)。
5.军奉行。军奉行负责按照总大将的授意调动部队、指挥作战,类似于现代的总参谋长。军奉行手下的旗奉行、弓奉行、枪奉行、兵粮奉行、小荷驮奉行听他指挥,对他负责,类似于现代的机关各部门首长。我主要来说说军奉行这一役职。
日本的战国时代是职制分工加快发展的时代,很多专门的职责被划分出来,根据当时文书、记录的记载,有普请奉行、寺社奉行、检地奉行、船奉行、公方奉行、藏奉行等,分别管理修建、宗教、土地、海上交通、外交、经济等各项事务,由于战争的关系,当然也划分出专门的军奉行掌管征讨事宜。由于攻防战守关系到一个家族的兴衰荣辱,所以军奉行位列奉行之首。根据大致成书于江户时代中后期的《武家名目抄》的解释,军奉行是“总裁军中一切,担当军国大任”。《保元物语》中的源为朝、《盛衰记》中的平知康,还有《平家物语》中的源义经都是军奉行,虽然那个时候军奉行还不是常设之职,而且名称还叫作尚军奉行,但其职责和战国时代想必也没有太大的出入。特别值得注意的一点是,越前的战国大名朝仓氏制定的《朝仓孝景条》中对军奉行这一职务做了特别的规定。按照规定,军奉行由得力的侍大将中选拔,出阵之际职掌军配,帮助总大将指挥全军。
与军奉行相类似的职役是武者奉行,这一名称出现在后北条氏、武田氏的资料中,也出现于《武家名目抄》中。根据历史资料的记载,在不同的家族中,有军奉行这一役职的就没有关于武者奉行的记载,反之亦然。由此推断,我觉得所谓武者奉行其实就是军奉行的不同称呼吧。
6.军奉行属官。军奉行手下的弓奉行、枪奉行等作战兵种主官,都不多说,我要多说几句的是小荷驮奉行、兵粮奉行等后勤部门主官。随着战争规模的扩大化以及战争时间的长期化,参战士兵的兵粮、弓矢、弹药、被装等辎重给养的输送和存储就变得越发地重要起来,甚至到了能够决定战争胜负的程度。相应地,一系列以为战争提供有力的后勤保障为职责的奉行职位就设立起来,并逐渐完善成熟起来。小荷驮奉行的主要职责是后勤物资的运输,只要能够将各种物资由后方运达前方就算完成了任务,当然这个差使也不是容易当的,被征调来当民工的农民时常集体逃跑,而如果不能将军需物资及时送达战场是会被砍掉脑袋的。兵粮奉行负责兵粮的筹措、囤积以及粮仓的维护管理,责任自然也十分重大。此外,有的家族还设有兵站奉行,例如武田家、后北条家等,历史上最出名的兵站奉行当属丰臣秀吉麾下的长束政家了。
7.军目付。军目付就像总大将的眼睛,是“军阵监督者”,负责监督全军将士的行动,对于违反军纪者、私通敌方者和临战退缩者坚决取缔,类似于现在的宪兵或者军事警察。在蒲生氏军中对军目付有一个非常特别而生动的称呼——大横目,也许,在一般人看来,军目付成天到处纠察军兵,一副横眉冷对的样子吧。
除了纠察违章违纪之外,军目付还有一个职责是记功。战场上看到谁又讨取了敌将的首级、谁又立下了什么功劳都要记录下来,报告给总大将和军师。战斗结束论功行赏的时候,由立功者自己申报,然后同军目付的记录进行对照,如果属实就对其战功予以确认,才能够进行封赏。
8.使番。使番就是传令兵,遂行传达命令给下级、友邻部队和传达我方意见给敌方知晓两个方面的任务。信息传递的顺畅、及时、准确有利于确保各部队的协调一致行动,提高整体协同作战能力。同时,如果能够成功寝返敌军,达到不战而屈人之兵的目的更是减少我军消耗,达到战略目标的上策,所以使番还有一项重要工作是积极地进行劝降工作。
电影里面经常出现这样一个镜头——一名使番骑马飞奔,结果被敌军埋伏的绊马绳绊倒,活捉,搜出重要情报文书。为了避免这样的情况发生,重要机密事务都是口授给使番的,然后由使番抵达目的地后亲自口述。这几乎是当时的通例,而且以武士对主家的忠诚,即使被捕也不见得能审问得出什么,所以,前面所说电影里面的情节在当时是不大可能发生的。使番还有特别的标志,比如武田家的使番背后有三面小靠旗,德川家的使番背后有一面“五字”靠旗,这些都是众人皆知的了。
9.物见番头。日语中的专有名词有的非常形象,比如这个物见就是观察、侦察的意思。而物见番头就是侦察分队的首长,负责侦察敌军的动静以及地形、战况等,及时为本阵参谋团提供有用的情报。
10.马回。马回为本阵警卫力量,负责本阵指挥机关的安全,类似于现代的机关直属警卫队。根据记载战国大名军团编成的《阵立书》的记载,马回众主要是由总大将的直臣团构成,是最忠诚的部队。马回众中最有名的当数织田信长的赤幌众(赤母衣众)和黑幌众(黑母衣众),后来成为“加贺百万石”的前田利家当初就是以赤幌众起家的,而名将佐佐成政和河久秀隆则是黑幌众出身。后来,丰臣秀吉也仿照信长的赤幌众和黑幌众成立了自己的警卫部队——黄幌众。家康军中,马回被称为旗本,由神原康政、本多忠胜、鸟居元忠等一大批名将率领的家康的亲卫队——“旗本先手役”作为德川军中战斗力最强的精锐部队屡次在战斗中担当突击队。
11.其他。本阵中还有一些保障人员,主要有太刀持小姓、大马印持、小马印持、本阵旗持、旗差、太鼓、法螺贝、祈祷僧、药师等,主要就是负责为总大将携带武器旗印、指挥作战、祈祷胜利和疗伤治病之类。
三、独立军团
1.侍大将及其军团
侍大将是独立指挥一支部队的领导,以前一般是出战之前临时由家臣中选择信赖者委任,是一个临时职务,战前授予,战后削去。后来随着战乱状态的恒长化,这一临时职务逐渐成为了常设职务。前面说过,侍大将独立领导一军遂行作战任务,其麾下部队有统一的旗印,甚至连铠甲的颜色也有统一的要求。关东后北条氏的“五色备”就是典型,其军团铠甲分为红、白、青、黄、黑五种颜色,编成五队,独立或协同作战,想想红彤彤的或黑压压一大片冲击的情景吧,对敌军也有一种心理上的巨大震慑力。众所周知,德川家康手下“四天王”之一的井伊直政就以其麾下赤备闻名。作战之前,总大将会从侍大将众人中挑选前锋(先手)、后卫(殿军、后诘)等,侍大将中的重臣还可以担任旗头,紧急情况下(如与本阵联络中断等)可以率领其他侍大将军团作战。史料记载,三河时代的德川家康军就有东西两名旗头,其家臣团组织如下:
a.旗本:
旗本先手役——神原康政、本多忠胜、大久保忠世、鸟居元忠、植村家存、大须贺康高
b.西三河旗头——石川数正(家成之侄,冈崎城主)
松平一族——松平亲乘(大给城主)、松平直胜(佐佐木城主)、松平信一(藤井城主)、松平重吉(能见城主)、松平家吉(吉良东条城主)
城持众——酒井正胜(西尾城主)
家康直臣——内藤家长、平岩亲吉、酒井忠利、岛田平藏、铃木信爱、铃木喜三郎
c.东三河旗头——酒井忠次(吉田城主)
松平一族——松平忠正(樱井城主)、松平亲俊(福釜城主)、松平伊忠(深沟城主)、松平清善(竹谷城主)、松平家忠(形原城主)、松平康忠(长泽城主)、松平景忠(五井城主)
城持众——本多广孝(田原城主)
国众——鹈殿康孝、牧野康成、菅沼贞通、西乡正胜、奥平贞能、户田忠重
以侍大将为中心的独立军团是大名家军团编成的基本单位,其下的足轻大将统领全队足轻,弓大将统领全队弓兵,枪大将统领全队枪兵,铁炮大将统领全队铳兵。足轻大将这一称谓出现在武田信玄军中。根据《甲阳军鉴》中《武田法性院信玄公御代物(日本汉字,心字底)人数之事》的记载,信玄军队中有足轻大将十三人。此十三人中,武藤喜兵卫昌幸麾下有骑兵15人,足轻30人。后来以骑兵战术闻名的真田幸村、信之兄弟之父真田昌幸也名列足轻大将名簿之中。
2.游势。游势也就是游击队或者别动队,采用的是诸如破袭、伏击、夜袭等战术扰乱敌方补给线、支援战斗的小股分队,一般由土豪以及自愿参战的浪人甚至于想借机捞一把的强盗山贼组成。由于人数少、规模小,故而对战争的胜负并没有决定作用,但是由于其行动迅速、战法灵活,打得赢就打、打不赢就跑,也会使得被他缠上的目标伤透脑筋。
小说的资料——饮食篇
吃是人类最重要的活动,只有喂饱了嘴,才能去思考。从中国到日本,多少强大的权力,都因为无法填满饥饿的嘴巴被推翻。权力首先要建立在嘴巴上,然后才能建立在脑袋上,只有控制住嘴巴,才能更好的控制住脑袋。战国时代是个物质极大不丰富的时代,原本物产就不丰富的日本,在这个时代粮食产量更是创造新低。在这个时代,人们究竟在吃些什么呢?
穷人与有钱人的食谱
我们现在来列两道菜谱:
一、小米饭、煮萝卜两块
二、大米饭、两指宽小鱼一条、腌萝卜一小碟、白水煮野菜一盅、酱汤一小碗
有人可以猜出来这两个食谱有什么关系吗?很多人可能会觉得这两道寒酸的食谱没有太大区别,感觉上应该是一个人某日的早餐和晚饭的食谱。
实际上,第一个菜谱是战国时期穷人家的早饭和午饭,第二个菜谱则是战国时期富人的早饭和晚饭。看起来,这两道菜谱一样寒酸,可战国时代的人们的的确确就是吃着这样的东西一天天的活下来。吃小米饭的农民,做梦都想像贵族们那样吃上大米饭。
战国时代的所有生活都围绕着战争,吃饭是为了活着,活着是为了打仗,打仗又是为了吃的更好。日本是个水稻生产国,几乎全国的农田都在种植水稻,可大米对一般种植大米的百姓来讲,却是奢侈品。
在黑泽明的电影《七武士》里,山上的山贼垂涎山下村子里的那点大米,便要在秋收的时候下山抢米。农民们为了保卫他们的大米,便拿出全村仅有的一点大米去城镇里招募穷武士来保卫村子,他们能拿的出的招聘唯一条件就是顿顿吃大米饭管够。
虽然不知道那些没出息山贼为什么不换个富裕点的地方去抢,偏偏死盯着这个穷到除了点大米什么都没有的村子,但这也从侧面证明了这个时代大米实在是个稀罕物。后来,村里的农民也真靠着这顿顿有大米饭吃的条件招募来了七名水准参差不齐的武士,虽然这七名武士说是为了保一方平安所以不计报酬,但能吃上大米饭对他们多少也是有一定的吸引力,毕竟在那个时代男人总是饿着肚子的,能吃饱实在是件不可多得的美事。
后来,武士们发现村民们将大米都给了他们吃,自己吃的却是小米饭和野菜,于是便将自己份额里的大米饭全给了村里的老幼妇孺吃。
说道战国时代日本大米的精贵,有个武田与今川两家合力攻打北条家的松山城的故事特别有代表性。
武田和今川两家合力攻打北条家位于武藏国的松山城,两军苦战多日,北条军水源被切断,眼看就要落城。满以为松山城指日可下的联合军,发现松山城的守城官兵居然在城头最显眼的地方用水洗马,本来饮水都应该成问题的松山城守军,居然还有富裕的水去洗马,这令攻方非常沮丧。最后,双方和谈成功,松山城被今川家和平接受。后来当胜利方问起洗马的事才知道,其实当时城里确实已经没有水了,士兵在城头用来洗马的是大米。他们将用盆装着的大米从马身上倒下去,远远看起来就和用水在冲洗一样。当时的士兵大都是普通农民,他们在生活里很少接触大米,所以远远看去,就算觉得可疑也不会怀疑伪装成水的物质竟是大米。
当时的时代日本粮食产量之少,甚至不足以供应全国人吃饱,一般百姓要保证不饿死,除了捞海产,就算丰年也要上山挖野菜。加上那时候也不讲究什么进出口粮食,各国都是自己吃饱了算,多出来的粮食就算烂在仓里,喂老鼠喂猪也不会想这出口给外国人换点外汇什么的。
话头说回来,就是因为大米产量很低,所以这白花花的大米就成了各地领主们特别指定的主要战略物资。农民在地里劳苦一年种水稻基本上就是在完成一项任务,收下来的大米往往全都要作为年贡送进领主的城堡,自己只能吃小米饭啃萝卜吃野菜,有的农民甚至一辈子都没尝过自己种的大米啥味道。
后来日本侵略中国占了东三省,不许一般东北老百姓吃大米饭,吃了就是经济犯。考虑到当时关东军上上下下大都是日本农民出身,估计当年领主们收走大米不许他们祖先吃的记忆还停留在他们的骨子里,如今自己好不容易混上了能吃大米的身份,便反过来小人得志,特别仇视农民吃大米
正如玉米和土豆的传入使中国人口增长,使日本人勉强能吃饱肚子的东西,是萝卜。
萝卜刚被引进到日本时只有指头粗细,经过日本农民的辛勤培育,萝卜终于变成胳膊粗细。萝卜营养丰富又易于生长,很快就成了农民的主要食物,即便贵族也对萝卜青睐有加,使之上了贵族的餐桌,而且几乎到了无萝卜不成宴的地步。
即便是有钱人吃大米,穷人吃小米萝卜,山国日本粮食依旧不大够吃。于是在上古的时候,日本人就形成了一天只吃早饭和午饭两顿饭的习惯,早上到下午要干活,所以一定要吃饭保持体力,晚上是休息时间,加上那时候人们没多少娱乐,只要早早睡觉肚子就不饿了,如此便能省下一顿饭的粮食。这样的习惯不光农民在遵守,上至天皇下至武士,几乎成了全国不成文的规矩,全国上下都在执行不吃晚饭的习惯。只不过,贵族们夜生活比较丰富,所以他们实在饿的不行,还能找点点心吃吃。
有些条件的日本人吃饭时都是坚持分餐制,每人面前一张小桌,上面摆着三菜一汤一碗饭,就算开宴会也是这样各吃各的。这些有钱人和穷人食谱最大的区别,就是可以吃到一点点荤菜。不过,因为不能吃肉,所以有钱人只能在鱼和贝类上做做文章,这已经是他们能吃到的最奢侈的食品。可奇怪的是,作为岛国的日本,无论贵族还是武士,都不会放开了任意吃海鲜,他们正餐的荤菜一般只会有一条小到只够吃几口的鱼,或者几片腌渍的贝类。鱼和贝类基本上不会同时出现,一餐的荤菜只能出现一种。有钱人始终维持着一荤两素一碗汤的饮食规格,即便是几百年后统一天下的德川幕府将军,一顿饭也只会吃一道荤菜。
之所以维持三菜一汤标准,据说是因为早期日本贵族忌讳四与死谐音,所以不会像中国人那样搞四菜一汤标准餐。
当然,有钱人偶然也会吃点别的东西换换口味。历史剧《武田信玄》里,北条家统帅北条氏康就曾经在海边享受着海风,吃大锅炖煮的虾贝等海鲜乱炖。
即便是领主,这样的美味也不是想吃就吃。一般他们在正餐意外想和点小酒什么的,能下酒的小菜不外乎就是指头细的小咸鱼,或者两块腌萝卜。战国时代的日本人忠实执行着禅宗“不妄食”的教规,正餐之外很少吃东西,当然也是没条件吃。即便再有钱,正餐时吃的鱼也只是够一餐吃的,真正的高级鱼和大鱼,只有在婚礼和过年之类的庆典活动时才吃的到。
后来开开创江户时代的德川家康,即使在统一战国乱世后吃的也还是很节俭,连鱼都很少吃,每天就吃些腌萝卜就米饭。有此他在家里遛弯,看到几个侍女在抱怨,便过去看究竟。
侍女们说:“现在的伙食实在是太不像话了,小菜只有腌萝卜。”
素以待人温和著称的德川家康微笑着说:“好吧,既然你们不爱吃,那就不要吃了。”
从此以后,侍女们作为小菜的腌萝卜就被撤销了,侍女们只能干吃白米饭。
这个故事在表现家康小气的同时,也为我们展示了贵为一国之主者的食谱——米饭和腌萝卜,凄凉之感油然而生。
战国时代的是日本空前的大混乱时期,粮食产量跌到谷底,武士也经常吃不饱肚子,不少城主也时常要自己下地种粮食,他们的老婆还会带着一些人上山去挖野菜。
城主活的都那么惨,农民生活就更苦了。在日本,六公四民的税收规格,也就是产出粮食60%归政A府,40%归自己已经成了常态,这还没算地主的那一份地租。有时候,狠心的领主会把税额订到七公三民,甚至八公二民。岛原农民起义的起因,就是领主在只生产八万石粮食的土地上收取十万石的地租。
口粮根本不够吃的,为了填饱肚子,农民拣贝壳捞鱼挖野菜,只要是能吃的东西他们都会找来吃——这还不是在荒年的时候。闭塞的日本穷人并不知道海对岸的中国有一种名为“观音土”的好东西,那东西吃下去肚子就能胀的一天不用吃东西,虽然偶然胀会死人。
饥饿在整个战国时代都是难以解决的问题,从武士到农民,想吃饱肚子都不是件容易事,就更不要想吃的好了。如果能顿顿能吃到本篇开头列的两道食谱,恐怕有钱人和穷人都能乐开了花。
打仗的人吃什么
战国时代的日本,虽然没规定农民不许吃大米饭,可因为大米产量少,于是产出一点也被领主收走,农民基本上是没机会吃到的。正是因为吃大米饭几乎成了特权阶层的专利,所以就有了领主为了招兵,派人扛着大米去募兵的事,当兵没别的优待条件,就是能顿顿吃上大米饭,顺便还能顺便在敌人的领地里抢抢劫什么的来贴补家用。
后者是要活着从战场回来才有价值,但前者对于等闲吃不饱肚子的农民实在是太有吸引力了,于是便有了许多农民为了尝尝自己种的大米是什么滋味,自愿到前线去拼命。后来的江户时代有句流传至今的谚语叫“舍命吃河豚”,战国时代去吃粮当兵的农民却是“舍命吃大米”了。
谁说只有鸟才为食亡?有时候人比动物更会为了两口吃的干舍弃性命的事,还是前仆后继的。
大米作为战略物资,最重要的用处就是行军打仗时作为军粮食用。
作为山国的日本交通很是不发达,所以要是和中国军队那样行军打仗还要带着一大堆的锅碗瓢盆就实在是太麻烦了。山地行军,为了保证机动性,最好就是能不带的东西都不要带,所以饭团就成了战国时代军粮的主要形式。
饭团最大的优点的是便于携带,食用的时候也方便,用不着什么容器和筷子,拿着就能吃,而且还不容易馊掉。制作饭团也很简单,就是将大米用手团成团,在手心里反复压实了就可以。为了使没有味道的饭团吃起来更好吃,有时候里面还要放上一小粒梅子,更高级的外面则要用切成小块的海苔包起来。
制作饭团的工作多数时候要在战争之前就进行,作为随身干粮的饭团一般是由士兵或者武士家中的女人来制作。做好后用长条的干粮布包裹起来,按照一个饭团管一顿饭,两个饭团管一天的标准再用绳子在干粮包外面打上结,最后斜系在士兵或者武士肩上,这样的携带干粮一般最多只带不超过十天的量。需要食用时,只要拉开绳结,就可取出够一顿饭量的饭团,这倒真是个方便的设计。这种携带兵粮的布袋名为“腰便”。
除了个人携带的干粮,领主也要制作大量的饭团作为公粮,这项工作经常是领主夫人带着城里的婢女还有武士家的女人们集体义务劳动去做。实际上,战国时代的领主夫人并不是件轻松的差事,她不但要照顾丈夫生活,还经常要带领婢女和武士家的女人们上山挖野菜、捆扎箭杆甚至给砍下来的敌人的人头清洗化妆,不但辛苦和胆大,还要具有相当的组织能力。可是,作为领主的小妾倒好像很少有参与进这些义务劳动的情况,这大概就是因为黄脸婆具有天生的家庭责任感,而狐狸精一般只是保持着得过且过的露水夫妻心态吧。
这些作为公粮的饭团在做好后,要用干净的草席卷起来,用人力拉的大车运送,随时分发给士兵食用。除了制作好的食物,作为军粮还要准备许多的生米,以备在战争延长时食用。
在大将下令休息后,士兵们就会找块干净的草坪席地而坐,生起火堆,烧上一些热水,取出一顿饭的份饭在火上烤热食用。有些人喜欢将饭团放在火里烤的焦香,这样吃起来也是别有风味,后来这种烤饭团还成了日本料理中一种重要的主食形式保留至今。
酸酸的梅子汁渗进米饭中,使饭团吃起来更有滋味,本身就带有海盐咸味的海苔也使吃饭团的人可以把它当小菜吃。另外,包在饭团外的海苔也起到了包装纸的作用,使食用者无需直接接触到黏黏的米饭,把手弄脏,这点很能体现日本人在细节方面的用心。
梅子具有一定的防腐作用,且能杀死逐渐变质的饭团里的大肠杆菌和葡萄链球菌,战国时代的日本人未必知道这点,不过后来的科学证明,梅子放在饭团里着实是益处多多。海苔具有多种营养,又便于晒干食用,将它作为包装纸和便携式小菜,也着实是很高明的设计。
日本人饭量很小,平时吃饭也只吃到八成饱,一天又只吃两顿饭,两个饭团足够一名士兵保证一天的体力加上那时作战的范围也不大,多数时候只是在方圆几公里内,最远也不过百十公里,关西霸主毛利元就和土豪武田家作战时,两家主城只有不到两公里,实际会花在路程上的时间实在不是很长,所以那些小规模战争经常会在士兵携带的饭团吃完的时候也就结束了。
丰臣秀吉一生中的两次大规模行军作战,第一次是剿灭明智光秀的西国大回转,一次是消灭柴田胜家的贱岳大行军,两次作战他为了轻装前进都没携带多少军粮。当时秀吉拿出十倍米价的金银作为代价,命令路边的百姓商家各自开仓,将家里的大米全都拿出来煮饭,以在内侧淋了盐水的草袋包裹,用牛马驮着随军前进。一路小跑的军队如果饿了,就伸手进米袋里抄一把盐水浸透的大米饭就着手吃掉。淋盐水的目的是为了保证米饭不馊掉,渗透盐水的热腾腾的米饭在饿极了的士兵吃起来居然格外好吃。只是在那个还没有阑尾割除手术的时代,不知道有多少士兵在边跑边吃饭的过程中得了急性阑尾炎挂掉。
当然,饭团只是为方便携带制作的权宜食物,毕竟没有新煮出来的食物好吃。
一些对食物挑剔的武士不甘心和士兵们同样去吃干巴巴的饭团,他们像上班族那样吃起了便当盒饭。这些盒饭有饭有菜,而且还是热乎乎现煮出来的,放在精美的漆器饭盒里,自然比起饭团要好吃的多。
流传至今最有名的战国时代关于便当的故事,莫过于关原之战时“宰相的空便当”的故事。
当时隶属于西军的吉川广家当时的官位俗称为宰相,暗通东军的他为了阻挡本家毛利军团下山参加作战,就传令说:“我军正在吃便当,所以无法放贵军通过。”这顿便当吉川军足足吃了一天,毛利军在后面急的跳脚,到最后都没能赶上作战。后来这个事件就被称为“宰相的空便当”,用来形容临时不决,犹犹豫豫的人。
自然,在当时“便当”这个词还非专指盒饭,“领便当”在当时更不是不吉利的词。
第四次川中岛合战是战国双雄武田家和上杉家的一次没有结果的大决战。双方出动兵力总数超过三万,在一场大战动辄几百人的战国时代,绝对是值得大书特书的战略大决战了。
在此次作战中,武田军采用啄木鸟战术,将军队分为两队,一大部偷袭妻女山的上杉军本阵,八千军队在八幡原布阵准备给上杉来个包饺子。结果,看穿武田信玄计谋的上杉谦信提前下山攻打只有八千人的武田本阵,几乎要了武田信玄的脑袋。亏得这八千人拼了老命扛到援军出现,这才转败为胜。
作战的时间是早上七点半打到下午,中间双方都没有时间吃午饭。兵力占军队劣势的八千武田军一直没有被占绝对优势的上杉军击溃。分析其原因,除了平时的训练和武田信玄的统帅有方,还有一点不大为人注意的就是,虽然都是百战之师,武田军在体力上没准要优于上杉军,所以即使没吃午饭也还能坚持。
这秘密就在于,武田信玄平时在部队里大力推广食用易于消化的刀削面,常年吃面食。
其实当时的日本还没有真正意义的面条,那东西要到明代大儒朱舜水在大明亡国东渡后带到日本来。当时所吃的,其实是据说从唐代传来日本的刀削面,时称A面,也有说是乌冬面的。这东西也很方便,作战休息时,战士们只要抽出刀来,把面团一块块削到锅里煮熟了,拌着咸菜就能吃。
说起咸菜,据说也是武田信玄大力推广的。当时主要的咸菜品种有萝卜和野菜腌制的。咸菜很咸,切一小块就能下饭,且携带方便、不易变质,还可以保证士兵能够摄取到维生素,实在是行军打仗杀人掠地必备。
长期吃刀削面加上咸菜,使武田军的体力要大大优于只吃米饭的上杉军,这样一天作战下来,饿着肚子的上杉军体力早就不支,估计还有因为低血糖晕倒减员的。人数上不占优势的武田军却可以凭着早上吃的那碗面坚持下来。
好吧,其实这只是说个笑话,不过武田信玄在军队里大大推广刀削面和咸菜,也许真的是这个目的也说不定。现在武田信玄老巢的山梨县,刀削面到现在还是本地名吃,有的大饭馆门口还会立块牌子,写着“这就是武田信玄力量的缘起啊!”
其实,上杉军也有自己的特色携带军粮,被称为“日之丸便当”。
制作这种日之丸便当很简单,用一种可以装二合五勺(约三百五十公克)名为“面桶”的容器,装上白米饭中间插上一颗小小的梅子,再整个放进“腰便”里,就是一客便当。虽然那时候还不管这种军粮叫做便当,但这大概就是最早的便当的由来了。
此外,武田军还以味噌作为军粮的配菜。武田军食用的是以大豆、曲、盐、大豆煮汤发酵做成的“野战味噌”,又称“白味噌”。“野战味噌”据说不但配饭好吃,而且还能解除疲劳和治疗胃病。武田的军的“野战味噌”吃了尤其生力气,这大约也是武田军在体力上胜过上杉军的原因之一。
另外一位将味噌作为军粮使用的人是伊达政宗,他所使用的是“仙台味噌”,这种味噌最厉害的地方在于保鲜期长。后来侵略朝鲜时,几乎所有武将所带的味噌都坏掉了,只有伊达军的“仙台味噌”味道还很新鲜。“仙台味噌”在江户时代成为了伊达家的传统军用味噌,每年要从仙台藩用船运到江户。但是,驻在江户的仙台藩藩士有三千人之多,运输实在是费时费力,后来大家一商量,干脆江户就地取材,于大井的别府里自己做“仙台味噌”。伊达的府邸里成天泛出味噌的味道,于是江户人便称在江户的伊达府邸为“味噌宅邸”。
小说的资料——外贸篇
一.勘合贸易(前期)
明日两国一衣带水,往来以船。日本幕府对明贸易所用之船称遣明船,因为贸易是采取进贡形式,又叫做进贡贸易,特别是日船入港需要持有明政府发给的勘合作为护照,所又叫做勘合贸易,而船则叫做勘合贸易船。
勘合贸易所载货物大致为以下几类:
(一)以幕府将军亦即日本国王的名义,向明政府的进贡物,这是两国官方贸易商品:
(二)附载物:其中分将军附载物、各大武士、守护大名、大寺院等附载物、商人和水手附载物。附载物的一部分,如将军、各大武士、守护大名、大寺院等的商品,以及大商人中的一部分商品和进贡商品一道运到北京贸易。其余商品在宁波市场或杭州市场出售,有时也在去北京的途中贸易。
勘合贸易船的组织形式与以前天龙寺船无本质上的区别,但其组织者不同。按组织者的变化情况,勘合贸易船可分为二期。第一期主要是义满、义教将军时期,组织者主要是幕府将军,其他大武士、守护大名和商人,都按幕府的要求组织起来,由幕府任命的贸易正使率领,赴明贸易。第二期的组织者发生变化,将军的控制能力与财礼逐渐减弱,幕府将军只能作为伙伴的身份出现。到第二期的中、末期,幕府连伙伴的身份也没有了,只是由各地大名名义上捎带将军的进贡品和附载物,回国时,带运明朝政府的赠品和将军的附载物。
船只是组织者在组织勘合贸易时的第一件大事。在前述的第一期时,大体由组织者筹款现造。第二期以后,在对外贸易迅速发展的基础上,各大武士大商人,尤其是西部的,都备有现成的远洋航船,因而出现了租赁船。
经常往来于明日间的大船有:
丰前门司的和泉丸,载重二千五百斛(计量单位,古代为十斗一斛,南宋后改为五斗);寺丸,载重一千八百;宫丸,载重一千二百斛;周防富田的弥增丸,载重一千斛;上关的药师丸,载重五百斛;深沟的熊野丸,载重六百斛等等。
这些属于西部门司、富田、上关、深沟等港口船主的船,平时在国内租给各大武士守护大名,运送货物乃赋粮。在组织勘合贸易时,组织者与船主协商,出家租赁。
据日本永享四年(公元1432年)寺院十三家联合租赁八幡丸时,在合股经营的协议书上标明:租赁费三百贯文、船舶及用具修理费三百贯文(出国前和回国后的修缮费)、原船舶头(船长)、协船头(大副)、知库、重付、柁工、水手——统称船方,在租赁期间的生活费及工资,由租赁者付给。船方大体上约四十人,每人工资十贯文计四百贯。此外,全船人员的食用粮米、水、菜、医药以及其他杂用,共需五百贯。以上各项合计需费一千五百贯,组织者必须事先筹措这笔经费,才能组成一条勘合贸易船。当然,这笔经费还要视船的大小而增减。
组织者筹措这笔经费主要来自两个方面,其一,榨取自本领地的农民,其二,索取自参加勘合贸易的商人。例如,日本明应八年(公元1499年)组织者规定:乘船商人每人交乘赁费二贯文,带一驮,货物交十二贯文,带十驮以上者可免交乘赁费,同时可再带船员一名,带二十驮者可带二名。这些收入用于赁船、修船、采购赴明货物以及为申请勘合而赠送的礼品等。
除此之外,乘船商人自明贸易归来之后,组织者还要按其所得值十抽一,征收抽粉钱。因此,商人及其所带货物的多寡,就成为组织者极为关心的事情了。往往在组织勘合贸易船时,组织者到博多等处招揽商人参加。这样商人逐渐地就成为了勘合贸易的核心,组织者为适应这样的状况,就随之逐渐改变了经营方式,由原来的抽分制演变为承包制。原来意义上的组织者在取得勘合后,不再亲自去进行上述各方面的组织工作,而是将勘合以一定的金额承包给大商人,主要是界町的大商人们。例如文明十五年(公元1483年)幕府的二条勘合贸易船就以每条四千贯文的价格承包给界的商人。这等于是商人们事先预付了十一的抽分税,以后的亏赚就与组织者无关了。这种承包制在细川氏的势力范围内较为流行,在大内的势力范围内,仍然是以征收抽分税为主。
其次,勘合贸易船的乘员结构,大致上分为下列三个部分。
官方人员:正使、副使、纲司、居座、士官、从僧、通事、总船头,分乘各号船,平均每船约为六、七人,而正使所在的一号船约为十五人。这些人由幕府、大武士、大寺院等派出,而充任正使者,几乎都是京都五山各大寺的名僧。正使由将军任命,持国书、别幅、贡物明细单,乘一号船。至明后,统率全体成员作为日本国王(将军)的代表,在奉天殿陛见明帝,呈表文,进贡品,参与商品的议价、组织贸易以及与明政府交涉等活动。正使以下管理准许携带仆人一到十人。一号船官吏多,仆人多,大体在六十人左右,二、三号船将减少半数。此外都是招揽来的商人,约在三十到五十人左右,其余均为“船方”。这样每条船平均在百人上下,一号船通常为大船,可乘坐一百八十到二百人。
居座(僧人)和士官(俗人)是勘合贸易船的实际管理者。按规定每船二人,但他们大多是大武士的代表或家臣,该船合股的大武士多,这类官吏就多。多于规定名额的叫做“外官”。这些人可以招揽商人并从商人的交易额中提取分成。
从僧,是跟随正使的僧人,但不是仆从关系,他们大多代表正使办理事务,类似秘书的职务,有时与正使为师生关系。因此地位较高。成化十九年(公元1483年)正使子朔周韦圆寂后,就是其弟子从僧圭莆周章代理正使归国。
通事,各船二名,大多为加入日本籍的汉族人,他们由幕府支给薪俸,充作翻译。例如曲祥,原为明永平人,十四岁其父为金山百户,后被倭寇掠去日本,出卖为奴。偶因机遇被义满将军召去当翻译,更名元贵,娶妻生子。宣德年间随勘合贸易船来明,上表陈情,回金山探母。宣宗曾手谕义满,令善视之。后又入明,得宣宗诏许,归里养母。
客商和从商人。客商又叫客人众。他们是勘合贸易的组织者、官吏招揽来参加勘合贸易的商人,在勘合中记载他们的人数和货物,具有正式贸易团员的身份。他们每人可以招揽二名商人,叫从商人。从商人的货物算在客商股份内,给客商以十一抽分。从商人教多,一些关原的仆从可以由从商人充当,船头可以招揽从商人或以从商人担任船方各种职务。从商人和客商越多,则该船关原和回国后征收的十一税就越多。从这一结构可以了解勘合贸易的实际内容。
最后,是勘合贸易中进贡货物的筹措。向明帝进贡的货物,最初大部分是从将军府库藏中拨出,一部分特产如硫磺、铜等,由拥有该特产的大武士守护大名等提供,而且大体上是无偿提供。后来将军经济势力削弱筹措不出,便由各大武士提供。如应仁二年(公元1468年)的进贡中,土歧氏提供铠一领,三宝院提供三对屏风,斯波、细川、山名等各提供马一匹。玛瑙由五山各寺提供十二快,加贺守护提供五块。硫磺由大友氏和岛津共提供四万斤,一万斤为贡品,三万斤为给价贸易品。这些货物都装在一号船内。后期,幕府无力经营勘合贸易船时,那一家经营一号船,他就要负责经营进贡品。将军的附载品给价贸易品也大体上如上所述。但后期将军无权时,有的大名就不愿意提供了。
凡例:景泰四年东洋允澎贸易团
勘合贸易获利巨大,因而将军、各大武士、社寺僧人、博多、界各地商人,都把这种贸易视作发财的大好机会,想方设法地加入贸易团。所以,勘合贸易团的成员人数越来越庞大,景泰四年(公元1453年)由东洋允澎率领的勘合贸易团是最大的一次。船十只,人数近一千二百余人,所携带的货物数量也是空前的。其货物数量为硫磺三十六万四千四百斤、苏木一十万六千斤、生红铜一十五万两千斤、长刀四百一十七把、刀九千四百八十三把;其余纸扇、箱盒等物数量较以前增加数十倍。明政府官吏很清楚,数量之所以骤增,是因为“旧日获利而去,故今倍利而来。”货物数量如此增加,如按往年旧例给价,则只附载商品中大宗货物的价格已达六十一万五千余贯。除去折绢、布款额外,给铜钱部分的款额为二十一万七千七百余贯。如果再加上回赐部分的价格,以及宁波、北京各市场交易的价格,则此次勘合贸易所带走的铜钱额,将是非常巨大的。所以,礼部奏明景宗予以大幅度地削价。削价后的给价仍高于日本市场价格:
苏木,每斤银七分,即铜钱七十文,合七千四百二十贯。
铜,每斤银六分,合铜钱六十文,九千一百二十贯。
硫磺,每斤银五分,合铜钱五十文,一万八千二百二十贯。
刀剑,每把钞六贯,计五万九千四百贯。
加上其余货物款额合计钞、铜钱为九万五千九百九十八贯。其中铜钱占半数强,为五万一百一十八贯;折绢二百二十九匹,抵钞二万二千九百三十贯;折布四百五十九匹,抵钞二万二千九百五十贯。
尽管明政府所给的价格高于日本市场,但日使团嫌低于以往价格,由正使东洋允澎出面力争,甚至说如果不按宣德八年例给价,回国后将受国王的诛戮,表示不如所请便不归国。明政府在东洋允澎的强硬力争之下,又增给铜钱一万贯,绢五百匹,抵钞五万贯,布一千匹,抵钞五万贯。
二.私商贸易(后期)
明日间的私商贸易是从元末延续下来的,明初虽然一再颁布禁海令,但明日问私商贸易一直在秘密进行。规劝义满将军与明建立外交贸易关系的肥富,就是在私商贸易中获取巨大利润的博多商人。不过,这种私商贸易的规模不大,人数也不多。在明日建立外交贸易关系后,私商贸易依然没有中止,在明史籍中一再出现无国书、勘合的日本进贡船不准进港的记载,就是最确凿的证明。由于两国间存在着官方贸易关系,所以私商贸易的规模也无大发展。嘉靖时代后期,明日双方勘合贸易停止后,私商贸易骤然增加。
嘉靖二十三年(公元1544年)日本种子岛商人驾船二只、一百五十八人,在僧人寿光的率领下,至宁波要求贸易。明以不到贡期且无国书不准入港,寿光便率船驶向定海外海双屿岛。这时双屿岛的情况是:
“双屿货蜜,而日本贡使适至。海商遂贩货以随售,情倭以自防,官司禁之弗得。而西洋舶原回私涣,东洋舶遍布海洋。而向之商舶悉变而为寇舶矣。”(《皇明世宗实录》,嘉靖23年8月、24年4月条。)
双屿岛已成为明私商与南洋各地、日本以及葡萄牙等商人的秘密贸易中心。寿光船驶进双屿,明商船立即尾随而来与之贸易。明沿海防倭哨所未曾认真禁止,因而巡按浙江都御史高节奏请世宗治其失职之罪。嘉靖二十四年(公元1545年)肥后商人,二十五年(公元1546年)丰后商人等亦自称进贡船,要求入港贸易。明宁波有司以同样理由不准其入港,他们也同寿光一样,在明沿海进行走私负易。这时,由于倭寇猖獗,日本商舶大部分有变为寇舶的行为,因此,明政府已把私商贸易看作倭寇侵掠的组成部分,取缔转厉。
为了制止日益猖獗的倭寇侵掠活动,浙江总督杨宣奏请世宗,派郑舜功赴日进行交涉。嘉靖三十四年(公元1555年)夏,郑舜功从广东经大小琉球至九州的丰后,并在这里派出从事官沈孟纲、胡福宁等去幕府交涉制止倭患问题。然而,这时日本国内战乱频仍,将军早已丧失控制全国的能力,无力制止倭寇。郑舜功不得已回国。北九州的大武士大友义镇为了发展对明贸易,曾派僧清授随郑舜功至明,表示奉明国典,制止倭寇,但要求给与助合准予贸易。明政府末准其请。不久,胡宗宪督浙,又派蒋洲赴日交涉。蒋洲于嘉靖三十六年(公元1557年)至北九州,恰值大友义镇与大内义长间爆发战争,不得进京,滞留北九州近两年,无奈回国。胡宗宪据蒋洲的汇报上世宗奏疏:
“洲奉使宣偷日本,已历二载,乃所宣喻止及丰后、山口。丰后虽有进贡使物,而实无印信勘合;山口虽有金印回文,而又非国王名称。是洲不晴国体,罪无所追。但义长等既以进贡为名,又送还被掳人口,其有畏罪乞恩之意。宜量犒其使以礼遣回。今传渝义镇、义长,转渝日本国王,将倡乱各倭立法铃制,匀引内寇一并缚献,始见忠款,方许请贡。”:(《皇明世宗实录》,嘉靖38年8月甲辰。《正气堂集》,卷9,议处日本贡夷。)
蒋洲所见,足以证明,日本国内战乱,互不统属,难以组成统一的勘合贸易团赴明进贡贸易。各个有势力的大武士在倭寇活动之外,常派出各自的商船赴明贸易,而这种商船与倭寇船很难区分,因而屡被明沿海哨所当作候寇船予以追击。嘉靖三十七年(公元1558年)大内氏曾浓僧人龙喜率船赴明贸易,改至明近海,因无国书被明巡缉哨船误作倭寇船予以打击,该船逃回本国。由于明日间得到许可的非官方贸易从未发展起来,因而私商秘密贸易,就成为官方贸易中断后惟一存在的贸易形式。
在日本私商赴明贸易的同时,明商船开始赴日贸易。赴日贸易的明商主要是闽、浙一带的海商。早在陈侃赴琉球时,其随从自琉球就了解到,与日本互市可获巨利。自是,闽人首先驾船载货赴日贸易,其后,广东揭阳县大家井人郭朝卿乘船赴漳、泉贩稻,因风漂至日本,发生贸易往来。总之,自嘉靖时代中期以后,明私商赴日贸易逐渐增多。日本天文十年(公元1541年)七月明船载货及二百八十余人至丰后神宫寺,天文十二年(公元1543年)八月明船五只至日,天文十五年(公元1546年)明船至佐伯之浦,永禄年间明船数至日本。天正三年(公元1575年)明、船停泊四柠之浦,所载商品有虎四只、象一只、孔雀、鹦鹉、麝香以及名人书画、续、罗、锦绣、沉香木、猩猩皮等各种珍奇货物,占地面积达二十间。明商赴日常遭风漂至朝鲜,其备边司向政府报告说:近年以来,中朝法禁解弛,故商船往来日本,络绎不绝。
不断赴日的明商以绢、丝换取日本的白银,恰如日商赴明获取铜钱。关于这种情况不仅朝鲜史料中屡有记载,而且威尼斯商人马斯洛·西扎·夫雷德利克在其一五六三年的航海日记中也有这样的记载:中国每年有载绢船一只赴日,载回绢价白银。
明商船至日的港口大体为萨摩的日向、大隅、丰后各港以及平户等地,日本京都、界市的商人循踪而至,从这里贩运明商品从事国内贸易。在这种贸易过程中,萨摩的纺津、筑前的花塔旭(博多)津、伊势的洞津,逐渐形成人烟辐辏的商埠地,明商船赴日本多半驶往这几处港口。因而这些港口明人居留该地者甚多,例如在博多:
“有一街名大唐街,而有唐人(指明人)留恋于彼,生男育女者有之,昔虽唐人,今为倭也。”(李百恭、郝杰:《日本考》,卷2,商船所聚。)
这些居住于日本并成为日本人的明人,大多为闽、浙一带的商人及其家属。他们有的是为了经商自动移居于该地,或因在经商途中被倭寇劫持至日而居留者。
应当指出,由嘉靖中期至万历中期约五十年间,是倭寇为患最猖獗的时期,是明海禁执行最严厉时期,同时也是明日私商贸易发展时期,尽管这时明日商人走私贸易冒有极大危险。日商(指非倭寇商入)船靠近明朝沿海,一旦被发现即当作倭寇船予以打击,明商船一旦被查获即按通倭寇罪论处。甚至到万历四十年(公元1612年)杭州商人赵子明等和万历四十一年(公元1613年)嘉兴县陈仰川、杭州萧府杨志学等百余名,还以“潜通日本贸易”罪名被捕入狱。明商被缉查入狱,表明海禁政策执行得极为严厉,但同时说明甘冒风险进行走私贸易的商人大有人在。然而明政府严厉海禁没有制止住的走私贸易,却因丰臣秀吉于万历二十年(公元1592年)发动的侵略朝鲜战争,从而导致的明日战争,被迫中断了。萨摩藩主岛津义久在日本庆长十一年(公元1606年)九月致琉球国王尚宁的信中曾谈到,明与日本不通商舶者近十余年。
在这十余年间明、日商船虽未至明、日两国贸易,却以南洋吕宋、马尼刺、交趾等港口为中介地,进行转口贸易。“我闽浙直商人,乃皆走吕宋诸国,倭所欲得于我,悉转市之吕宋诸国矣。”(《徐文定公集》,卷8,海防迂说。)
甚至日商在吕宋购买明丝时,还发生过抢购风潮。在万历二十八年(公元1600年)至三十年(公元1692年)之间,明商贩运大量生丝于交趾,均为至该地的日商所购去。在南洋各地港口从事转口贸易,当然不如直接对明贸易更为有利。因而于万历三十一年(公元1603年)德川家康取得政权任将军以后,便企图恢复明日间的外交贸易关系。日本庆长十一年(公元1606年),德川家康示意萨摩藩主岛津义久,令其通过琉球国王转达明政府。日本愿意恢复通商之意。德川家康惟恐琉球国王的斡旋不利,于庆长十四年(公元1609年)又令对马岛的宗义智派使者去朝鲜,请求允许假道赴明贸易。德川幕府从南北二个方面向明政府致意,要求建立外交关系和通商。但是明政府对于德川幕府伸出建立外交关系的手并未理会,只是由于倭寇侵扰基本停止对海禁稍有解弛而已。在海禁松弛的情况下;万历三十五年(公元1607年)泉州许丽寰商船驶进坊津贸易,逗留年余始返。在返航时,萨摩藩主岛津义久曾致书许丽寰,约定明年再来。万历三十七年(公元1609年)七月,明商船十只驶进鹿儿岛和坊津。
日本庆长十五年(公元1610年),明广东商船开进长崎,长崎奉行请示幕府,颁给广东商船一张朱印状,其中规定,日本任何郡县岛屿的商人都可任意交易,如有日人不逞之徒枉行不义,将处以斩刑。稍晚些,明应天府商人周性如至五岛,十二月晋见德川家康,幕府又颁发给予保护贸易的朱印状。同时德川家康还命作书托周性如带给福建巡抚陈子贞,再次表示愿意建立外交关系,继续进行勘合贸易,如果同意当派专使赴明重修旧好。但是,周性如系走私商人,不敢呈交德川幕府的信件,因而福建总督对德川家康的表示无任何反应。庆长十八年(公元1613年),德川家康再命作书托琉球王转交明政府,要求恢复勘合贸易。信中提出三种贸易方式:其一、准许日商船至明贸易,其二、明、日商船至琉球互相交易,其三、两国政府互派使船进行勘合贸易。最后,信中针对以往几次通信都无回答,这次发出威胁语说:如果三种方式都不准许,则将命日本西部九因数万军卒进寇大明国。和以往几次信件一样,明政府并未按到此信,因而也无反应。但是,这时明海禁政策不但松弛,而且政府内部出现撤销海禁之议,私商出海赴日贸易者日益增多。万历三十八年(公元1610年)福建巡抚陈子贞指出:
“奸民以贩日本之利倍于吕宋,簧绦所在之官司,擅给引票,任意开洋。高桅巨舶,络绎倭国。”(《皇明神宗实录》,卷476,万历38年。)
这样,由于日本德川幕府准许明商至日贸易,由于明政府海禁放松,并且与官方有亲属联系或以金钱取得出海凭引,因而明日私商贸易事实上变成半公开性质。这种状况解决了日本对明商品的需求,因而德川幕府不再急于要求发展明日间的官方贸易了。
这个时期,明商对日贸易获利极大,例如:万历四十年(公元1612年)时,一只福建肛日本价格值千金、鸟肛也值数百金,一部《批点通鉴节略》值四十金、《舆地记》值二十金,焰硝、铁、金皆二十倍利,其他锦缔、器物也获数倍之利。日本那时流行鹿皮上装与鹿皮袜,精致的染上各种色彩的鹿皮上装,上等者价银七、八钱,中等者价银四、五钱,下等者三钱,日本宫民皆爱穿用。因此明日商人则争作鹿皮贸易,颇为获利。在巨利的诱惑卞,明商赴日逐渐增多,日本庆长十七年(公元1612年)七月二十五日,明日商船同时进入长崎港口共有二十六只,载生丝二十余万斤。以后明商船来日逐年增多,庆长十八年(公元1613年)有八只,庆安三年(公元1650年)达到七十只。在德川幕府初期,对西方商人如葡萄牙、西班牙商人限制在长崎贸易,而荷兰、英国商人只准在平户贸易,但对明商人无任何限制,船开进某一港口,都可向当地申请准许贸易。明商人到达所要去的港口后,可以访问朋友并投宿其家,互市也较为自由,甚至一些商人肩负商品走街串巷叫卖也不禁止。但是,这种情况并不长,元和三年(公元1617年)六月开始下令,让开到萨摩的明商船转至长崎港,至宽永十二年(公元1635年)明商船也只能在长崎一港贸易了。
在对日贸易的明商中,比较著名的有李旦、颜思齐、郑芝龙等人。李旦是泉州人,是这个时期的典型海外贸易商。他虽经常赴日但却与倭寇无牵连,凭靠经济实力与日本、荷兰、英国等商人进行贸易竞争。郑芝龙南安县人,初为其舅黄程至日本经商,以后逐渐形成巨商,往来于日本、台湾、福建之间,势力颇大。清朝建立后,南明政权就依靠郑芝龙及其子郑成功的经济力量,偏安一隅。
郑芝龙和日本大藩的关系较深,不仅朝见过德川家康,而且在平户娶藩士田川氏之女为妻,生子郑成功。郑氏父子为南明政权的存在,曾与德川幕府和各大藩有过接触。德川幕府虽没有正式表示支持,但没有禁止与郑氏有关系的日商,在群器和经济方面给予帮助,郑成功军队中有日本造洋枪队就是证明。郑成功的商船往来于日本和台湾、南洋各港口进行贸易,筹措资金,支持南明政权。
明日商人在相互竞争中,促进各自国家的经济发展。前已述及,福建一些地方收买日本铜,以提炼其中所含残银,与此同时,又出现一些专向日本出口铜钱的制造商。
“日本惟用中国古钱,每钱一文,价银四厘。向者福建、龙溪地方私自铸钱市之。彼重中国之钱,不计龙溪之伪。”(郑舜功,《日本一鉴》,载傅依凌:《明清时代商人及商业资本》,第151页。)
造船业受明日私商贸易的影响,明、日双方都有发展。早在嘉靖三十四、五年(公元1555—1556年)时,唐枢就曾提到,闽、广各地为日人造船的事实;后来丰臣秀吉侵略朝鲜期间,日本私商涌向南洋,进入德川幕府时期,朱印船贸易一度颇为发展。从事安南贸易的京都商人角藏(仓)了以,看到明商船的优越,放弃本国的造船法,引进明造船技术,制造远洋大船。这对日本造船业具有极大影响。在丝织业方面,日本的天鹅绒技术先进,产品深受国际市场欢迎。漳州的纺织业特仿效其法:“天鹅绒本出径国,今漳州以绒织之,置铁线其中,织机割出,机织云燕,殆夺天工。”
完本感言——角色的命运(上)
对于一本具有基本水准之上的网络小说,读者最需要的是什么?恐怕不是什么爽点,而是一个顺利的结局。
因此,打下“全书完”三个字,我心中一下子轻松了许多,一年零一个月的时间,一百四十八万字,总算对读者们有个交代。
当然,结局不可能让所有人满意,连我自己都有些遗憾的感觉。虽然结局早已确定,“川流不息”这一章节名早已拟好,甚至连小夏的那句台词都已在脑中萦绕很长时间,但是到了结局之时,由于稍显仓促,少了一些感情的酝酿和沉浸,最终没有写出昭和歌姬那首名曲的韵味来。好在事情都已经交代清楚,最大的大坑也已经填上,而且就这本第一人称小说的主角而言,可谓是极为完美的结局。
我原本就不是想写一部争霸的历史,而是想写一部感情的故事。更何况,这部小说的起因,是九条道一告诉我的《吉良物语》。当时我看到资料时,心里的第一个想法,就是原来还真有比足利将军家家格更高的源氏支脉,然后就感到疑惑,虽然土佐吉良家血脉高贵,但毕竟是一家未曾兴起过、最终又彻底洇灭无闻的国人豪族,是谁为他们写下这部物语呢?要知道,很多曾经的国主级大名,都没有这样的待遇啊!
所以,对于我的初衷而言,感情故事有了个结局,《吉良物语》的来源有了个解释,这部小说到这里就是顺利完结了。
在此我要感谢我的读者们,谢谢你们的支持。我记得,这部小说的巅峰收藏是大封推之后的10532个,之后尽管经历了好几个月,我的速度也降了下来,但是完本时的收藏依然有10119个,可见绝大部分读者都非常执着啊!
这里说句题外话,当我写到“于斯为极”的摄津决战时,曾经有过一个有趣的想法,就是将当时收藏本书的10235位读者设定为八支备队的直属精锐(满编12000人),平均订阅的1503位读者设定为全军先锋骑(井伊赤备),作为决定战役成败的关键力量。不过,最终为了战略合理性,还是放弃了这个想法,将八支直属备队分开配置。
好了,现在转回正题,说一下我设定中的角色命运。
第一个自然是作为主角的吉良宣景,他在我的设定中是一个性格冷静、具有现代普世价值观、因为从小确定关爱而极为重视亲情的仁者。而为了突出悲剧性,我原本设定的梦中结局是被嫡子和三子联合幽禁,最终为了天下人的尊严,唱着《敦盛》自焚解脱。这个结局的本义,是为了弥补没有正面描写本能寺之变的缺憾,同时也拥护一下某些把信长视为穿越者的说法。不过,后来我觉得,以主角那么崇高的威严和人望,死后注定封神,因此就算失去一切权柄,也绝对没有任何人敢对主角不利,因此改成了现在的梦中结局。
就算是这样,也有很多人认为,我把作者写得太软了,不够杀伐果断,是一个非常失败的统治者。可是,大家应该注意到,这是第一人称的小说,主角又是一个非常重情的人,这才让主角在受到感情方面打击时,表现出了极为悲剧的命运。而如果大家换一种视觉,以其余人的观感来看,主角是一个什么样的人?威名赫赫,战无不胜,终结百年乱世,缔造强大幕府,生前位极人臣,死后定赐神号,平定关东的二代将军说撤就撤,绝大部分藩主死心塌地,外样大名无不凛然。可以说,除了感情方面,主角的人生是极为完美的人生,而我以第一人称写出他的感受来,就是为了表现出世事的无常,即使是再伟大的统治者,也有他自己的不幸,其中的悲欢离合,也只有他自己最为清楚,如人饮水,冷暖自知……以本朝太祖来说,可谓是威权行于内,声名播于外了吧?可是,他自己面对就义的发妻、抛弃的继妻、擅权的末妻、阵亡的长子、痴呆的次子、失踪的三子,会是什么感受?会觉得如意么?所以,作为第一人称的主角而言,能够发现自己最珍爱的东西(与小夏的感情),并且在大彻大悟后最终获得,可以说是获得了最大的幸福。
然后是第一女主角小夏……恩,这个地位并不是所有人都认同。但是在主角而言,她就是第一女主角,也许她不是最漂亮的,不是最贤惠的,不是最有内涵的,不是最有助力的,但她却是主角最心爱的。而在最后,她也找到了自己的幸福。
另外一位女主角是菜菜,也是许多读者非常喜爱和认同的主角,其中包括我的亲弟弟,包括对本书最投入的乌梅,包括好些最忠实的读者。当初我写到她的死亡时,书评区一片惋惜和讨伐之声,乌梅为此专门写了合计近四千字的几段长评,对主角的安排和表现口诛笔伐(其实也就是对身为作者的我……),其中的剖析可谓是一针见血——
这样一个温柔,善良,而又坚强的美丽女子,最终还是死了。现在想来这个孤寂半生与菩提寺中的女子,宣景负她太多了啊。她的善良,她的温柔,还有她的坚强,都是那样的耀眼,让我为之心折。而吉良宣景对与菜菜的关系处理太轻率了,也太轻慢了。总是漫不经心,混不在意的性子,辜负了身旁人,冷落了她的心。而她却二十年如一日的痴心不改,本心不改。我都替吉良宣景感到脸红羞耻。这样一个美丽女子,最后还是死了。她死在了自己的坚持上,死在了多年的心结里,她要还愿,要解开十年前长岛一向宗众的心结。也死在了她多年忧心操劳,孤寂伤寒上。
她的身体一直都不好,尤其人到中年,保养不利,丈夫又常年不在身边。身旁有宣景之母在侧,而又无嫡子侍奉与旁,青灯古佛,看秋叶飘零,寒风拂面,想来也让人感伤啊。
吉良宣景是个优秀的家督,优秀的家臣,未来也是个优秀的君主。但他不是个优秀的男人,优秀的丈夫,优秀的父亲。他作为一个男人的担当不足,对妻子的关爱不足,对子女的教育不足。他虽然做成了许多大事,建立了许多大功,创立了土佐吉良家难以想象的功业,但他并不是个成功的男人,他有许多无可挽回的失败。
……,……
对于这番剖析,我本人极为佩服,自认绝对赶不上她。也因为如此,我对她那句“只希望伪君子吉良宣景以后死了后,在地狱里好好的对自己的妻女谢罪,好好的忏悔自己的过错,好好的挽回自己丧失的人生意义吧”极为认同,因为这正好与我的情感主题暗合,于是就设定了那个被两子幽禁、最终自焚的凄惨的梦境结局。不过,最后还是让她失望了,主角从梦境中解脱,与挚爱的小夏终老,而对于菜菜,既然已经放弃功业,就不可能再发生交集,只能是“相忘于江湖”。
其实,对于这个第二女主角,我同样是倾注了极大的感情,她的判词《夏草忘忧》,我写得非常认真;她的法号,也被我由历史上的“水心理因”改为了“道秀宗林”,特地将本人已故生母的名字嵌了进去;而原本的“川流不息”终章中,原本是计划了一段缅怀和祝愿的内容,结果因为感情酝酿未到,于是全部寄托在了那句“相濡以沫,不如相忘于江湖”的感叹之中。
顺便说一句,历史上的菜菜,或者说司马辽太郎那篇《夏草之赋》中演绎的菜菜(别找了,网上没有中译本,只有二手原版书),并没有本书中描绘的那么贤良淑德,而是一个貌美如花、任性好妒的女人。因此,我才在文中那么早的将她掳来调教(这个……),培养成自己的贤内助,如今则正酝酿着一章外篇,描述开了酢菜屋后的主角在町中遇到出行的长宗我部家御台夫人(有时间会写),想来应该会很有意思吧!
完本感言——角色的命运(下)
再说第二任继室於加。我写这个角色,起初是看到美空云雀的和服剧照,看了《武士的一分》的加世,觉得特别贤惠,特别可亲,于是就构思了这么一个角色。可以说,这个角色,就是我印象中操持家务的普通武士妻子,典型的家庭主妇,可能见识不多,却是任劳任怨,一心一意为家庭付出。所以,尽管她没有什么存在感,却是主角家中不可或缺的人,犹如贴身的衣物一般。最后选择她为继室,某种程度上也是对她的肯定。这一点,从确立继室人选时的书评区可以看出来,当时的读者们,事先猜测了小夏、直虎、阿市、德姬等多人,基本没有想到於加,可是结果出来后,大家立刻就接受了,而且对这个情节表示了相当的认可度。
然后是直虎,她和石谷菜菜一样,是真实的历史人物,是井伊直政(文中叫宣直)的养母亲。她的经历非常奇特,幼名次郎的父亲直盛,给她取幼名为次郎法师,元服后名为直虎,这完全就是嗣子的格式。另外,直盛还为她和堂侄直亲(直政生父)定下婚约,显然是希望由两人共同执掌家业。可是,后来由于今川家与力(也可以说是监视人)小野道高进谗,直亲的父叔被迫自杀,直亲逃亡信浓,期间得到奥山朝亲庇护,娶其女儿为正室,因此两人的婚约就作废了。此后,直虎终生未嫁,抚养直亲的嗣子直政成人,并以武士的身份出仕于德川家康,而直政长大后也就成为德川家谱代。
这样一个传奇女子,我很是花费了一些心思和笔墨(那几首酬唱的和歌可以证明这一点),原本是想让她作为单纯的家臣,在把直政预定为谱代的同时,也描绘出一个特立独行的女中巾帼。只可惜,由于书友强烈要求,我不得不更改剧情,将她纳为主角的侧室。而在后来,鉴于她受欢迎的程度,我又不得不更改剧情,免去了她的陨落之厄——按照剧情,她本该在参加三方原之战,战死于井伊家世代剂炀伊谷附近。
最后一位正式的侧室,是大友简妮特。她是一个半虚构的人物,原型是大友宗麟长女乃千(のち),教名Jester(ジェスタ),因为不太好听,我改成了Jeanette,也就是简妮特。她的确是一条兼定的正室,在一条家灭亡后离缘,嫁给大友庶支的清田镇忠。但是,我把她安排给主角,除了给主角安排插手九州事务的楔子外,更深层的意义是把她当做历史上的石谷菜菜——至少是司马辽太郎作品中所描述的菜菜,那个貌美如花、任性好妒的女人。而梦文中为了已故的小夏将她赶回九州,也就引申出了真实的结局:放弃菜菜,选择小夏。
除了以上几位,还有两位打酱油的,一位是宇喜多秀家(文中名宣家)的生母船津於福(也有说法是出身于三浦家另一支族鹰取氏,不过我更愿意相信是船津),一位是细川真之的生母大形殿。之所以出现这两个人,除了剧情合理性、结局稳定性外,还有吐槽的意思。前者是吐槽好色无度的猴子,后者吐槽长宗我部元亲……没错,又是元亲,这家伙平定阿波后,娶了当时年近六十的大形殿为侧室,而大形殿第二年就为她生下一个男孩。因此,我特意写了那个orz剧情,以表示对那位日本夏姬犹如滔滔江水的敬意(不知道夏姬的去查历史)。只可惜,我没有想到,就为了这个剧情,主角居然蒙上不白之冤,被广大读者称为“炮景”……然而在实际上,这并非播种人厉害,而是土壤实在肥沃,所以希望大家别这么叫啦!
好了,说完妻妾们,现在该说子女了。
子女之中,第一个要提到的是美津。这个萝莉,我花费了不少笔墨,于是有邪恶的读者开始叫嚷了:反正毫无亲缘,年龄也相差不大,希望出现父嫁内容。鉴于他们的强烈呼声,我的确曾经设计过这样的内容,幸好最后悬崖勒马,坚持了自己的主见,同时也保住了情节的合理性,保住了自己的节操(真险啊……)。
第二个是周景。他是一个非常完美的武士,唯一的遗憾是庶出。我最初的安排,是让他身蒙猜疑而被迫自杀,以便增强本文的真实性和悲剧性,也为末尾小夏阻止主角出山埋下伏笔。然而,写着写着,周景的性格越来越完美,地位也越来越重要,于是就不可能让他自尽了,否则会严重损害整个吉良家的气运。于是,我不得不再给小夏安排了一个孩子景七郎,让他接过兄长周景的剧情……这个安排,说起来还真是残酷,可是武士时代本来就是如此,敦盛那样的美少年,不就是若年死于战场之上?
总之,周景逃过了那一劫。而我对他的第二个安排,是我前面曾经提到的,主角被信景和景政软禁的剧情。完整的剧情,首先是於加病重,景政前往关东侍奉生母,接着首席大老秀景积劳成疾,信景趁机将景政抬出来,援引主角分封秀景的先例,将景政提升为御门家,并凭着之前的资历,越过井伊宣直担任首席大老,同时重新取得对目付组的控制权。然后,就是软禁主角的戏份了,而得到秀景死讯的主角,心伤于最初的、最亲密的两位跟随者都已不在,于是为了尊严,为了保住海月刀,自己引燃东山寺……在大火逼近时,主角设想了之后的剧情发展:周景看到东山寺的大火,明白发生了大变,连夜逃回领国,召集西国诸亲藩和谱代讨伐信景,于是日本分裂,东西决战爆发。这样的觉悟,让主角勘破世情,返回最初遇见小夏的时刻,并选择了和小夏一同隐居。
不过,正如我之前所言,以主角的威望,死后必定封神,这样的人,就算失去所有权力,也没有人敢铤而走险。所以,我取消了这个精心构思的结局,改以夏津被迫远嫁之事作为主角顿悟的契机。而主角最后把《吉良物语》送给周景,也就是承认周景才是他的精神上的继承者,是他和小夏两人共同的骄傲。
然后是嫡子信景和景政。他们和周景,是主角最年长的三个孩子,都参与了决定天下归属的摄津合战。三人之中,周景主要继承主角的品格,信景主要继承主角的地位,景政主要继承主角的能力。继承地位的信景,与绝大多数英明强势人物的嫡子一样,都具有矛盾的双重性格,一方面是受到积威的压制,行事中规中矩,在关键时刻缺少决断合担当;另一方面,当他们真正掌权之后,又往往会迫不及待的希望做些什么,以发泄长久以来的压力,证明自己的能力和气魄配得起继承人的身份,甚至还特意改弦更张,以示不输于先辈……这样一来,文中的对抗剧情也就发生了,而悲剧也就随之而来了。
至于景政么,承蒙读者们关照,很长时间都处于风口浪尖之上。大家对他口诛笔伐,恨不得主角立刻将他处理掉。可是,大家却忽略了三个最关键的因素。第一,他在本性上并不坏,只是和某些激进作品中的主角类似,常常为一己之私算计别人,而且杀伐之气极重,把别人都当做笨蛋或者NPC,偏偏还自己感觉良好。而对于他,主角还是可以容忍的,毕竟主角是仁者,既然连类似的下属(二见光成)都能原谅,为什么要对自己的亲生孩子起杀心?第二,是他的确有能力,能够并且帮到了主角的忙,主角最初还准备让他继承秀景的地位,作为首席家臣辅佐信景(作为连枝众,无法继承宗家,没有周景、义景那么敏感的身份),只是理念不同而已(正如我不愿写那种无脑杀伐主角一样),因此闲置即可。第三,他对于主角,可以说是无比崇敬、无比崇拜的,对于这样的子女,就算有些出格,哪个父母忍心下痛手?所以,主角绝对不会做得太绝。
同样的原因,景政也不会对主角太过分。在我原本设定的结局中,尽管他为了权位,听从了信景的命令软禁主角,却还是对主角毕恭毕敬,只是以保护主角不受打扰为由,跪请主角撤去身边的亲信,交出代表吉良家最高权威的海月刀而已。有近臣对主角稍有不恭,则立刻被他当场斩杀——这一点,正如他的特殊爱好一样,都是日本高级武士的典型态度。
启之章






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